SONGFABLE · 1991

Black or White

MICHAEL JACKSON · 1991

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Black or White - Michael Jackson (1991)

1991年11月、世界27カ国で同時オンエアされたミュージックビデオは、推定5億人の視聴者を一夜にして繋いだ。ロックギターのリフとラップ、アフリカ的なコール&レスポンス、そしてモーフィングで人種が溶け合う映像。「黒か白か」という二項対立を、ポップの最大公約数で笑い飛ばそうとした、マイケル・ジャクソンの大胆な賭けだった。だが、その軽やかな表面の下には、より複雑で、より傷ついた本音が埋め込まれていた。

Hook

1991年11月14日、午後8時。アメリカのFOXネットワーク、イギリスのBBC、日本のテレビ朝日を含む世界27カ国のテレビ局が、同時刻に同じ11分間の映像を放送した。前代未聞のメディアイベントだった。アルバム『Dangerous』のリードシングルとして発表された「Black or White」のミュージックビデオは、推定5億人が視聴したとされる。比較のために言えば、同年のスーパーボウルのアメリカ国内視聴者数が約1億人。マイケル・ジャクソンは、地球規模のお茶の間を一晩だけ占拠したことになる。

スティーヴ・バロン監督の映像は、いま見ても奇妙に多層的だ。マコーレー・カルキン演じる少年が父親(ジョージ・ウェント)の小言にうんざりして巨大スピーカーで吹き飛ばす冒頭。アフリカのサバンナで踊るマサイの戦士。タイの古典舞踊。ネイティブ・アメリカンの儀式。ロシアのバラライカ。そして終盤、有名な「モーフィング・シーケンス」で、異なる人種・性別の人々の顔が次々と溶け合っていく。当時CGI技術の最先端だったパシフィック・データ・イメージズが手がけたこのシーンは、「人類はひとつ」という主題を、まだ誰も見たことのない視覚言語で提示してみせた。

エディ・ヴァン・ヘイレンを彷彿とさせるロック・ギター(実際にはビル・ボトレルが弾いている)と、ヒップホップのビート、そしてジャクソン自身のラップが融合した楽曲そのものも、ジャンル横断の宣言だった。1980年代後半、MTVではロックと黒人音楽が依然として別チャンネルのように扱われていた。ジャクソンは1983年の「Billie Jean」でその壁をすでに一度破ったが、「Black or White」は別種の壁、より根深い文化的な壁に手をかけていた。

Background

『Dangerous』は、マイケル・ジャクソンにとって転換点のアルバムである。それまでの作品でタッグを組んできたクインシー・ジョーンズと袂を分かち、新世代のサウンドを取り入れるべくテディ・ライリーをメイン・プロデューサーに迎えた。ライリーはニュー・ジャック・スウィングを発明した男であり、ガイやキース・スウェットといったアーティストを通じてR&Bにビート・プログラミングとヒップホップ感覚を持ち込んでいた。ジャクソンは『Bad』までの華やかなディスコ=ファンク路線から、より硬質で、より都市的なサウンドへと自らを更新しようとしていた。

しかし「Black or White」は、そのライリー・サウンドの中核というよりは、別の系譜に属している。共同プロデューサーはビル・ボトレル。1980年代後半からジャクソンと組んでいた白人エンジニアであり、後にシェリル・クロウのファースト・アルバムを手がけることになる人物だ。曲のスケッチは、ジャクソンがピアノで思いついたコード進行から始まったという。そこにボトレルがロック・ギターのリフを乗せ、二人でデモを膨らませていった。

興味深いのは、ジャクソンが当初、ラップ部分も自分で歌うつもりだったらしいことだ。最終的にはボトレルが代役として吹き込んだバースが、そのまま採用された。クレジット上「L.T.B.」(Leave It To Beaver、米古典コメディの主人公の名)と表記されているのがボトレルである。白人エンジニアが代筆したラップを、黒人スーパースターが容認し、世界中に流通させる。この事実そのものが、楽曲のテーマである「人種カテゴリーの揺らぎ」を、楽屋裏で先取りしていた。

リリース時点で、ジャクソンは33歳。整形手術と肌の色の変化(後に本人が公表する尋常性白斑による)が、タブロイドの主要な話題となっていた。「黒人らしさを捨てた」という批判と、「白人になりたがっている」という揶揄が、彼の周囲には絶えず渦巻いていた。そうした状況下で、人種カテゴリーを真正面から扱うシングルを送り出したことには、明らかに自伝的な含意があった。

Real meaning(隠された物語)

この曲の表面的なメッセージは、極めてシンプルだ。肌の色など、誰を愛するかという問題に関係ない。人間は皆同じだ。1991年のラジオから流れてくるとき、この主題は受け入れやすい、ほとんど無害な公共広告のように響いた。

だが、ミュージックビデオの「もう一つの結末」を知っている人は、別の物語を読み取ることになる。当初放送されたフルバージョンには、モーフィング・シーケンスの後に4分間のエピローグが付いていた。黒い豹が街を歩き、一人の男性(ジャクソン自身)に変身する。深夜の駐車場で、彼は車のフロントガラスを叩き割り、ゴミ箱を投げ、店のウィンドウに体当たりする。怒りに任せて、何の説明もなく、ただ破壊する。途中で股間を掴むポーズや、明らかに性的なダンスムーブも挿入されていた。

このシーンは初回放送直後から猛烈な抗議を受け、ジャクソンは「過剰だった」と謝罪し、その後の放送ではカットされることになった。だが、なぜこのエピローグが必要だったのか。多くの批評家がのちに指摘したのは、それが楽曲の「公式メッセージ」への対位法だったということだ。

人類はひとつ、と歌の本編は言う。だが現実は違う。1991年3月、ロサンゼルスで黒人男性ロドニー・キングが警官に集団暴行される事件が起きていた(後の1992年、警官無罪判決を契機にロサンゼルス暴動が発生する)。同じ年、ニューヨークではクラウン・ハイツでユダヤ系と黒人コミュニティの衝突が起きていた。「黒か白か」という問いは、ジャクソンが歌うようにナイーブに笑い飛ばせるほど、軽くはなかった。

エピローグの黒豹=怒れる黒人男性のイメージは、その現実への返答だったと読める。「Black or White」という曲のタイトルが提示する二項対立を、本編は「どちらでもない、両方だ」と答える。だがエピローグは「だからこそ怒っている」と返す。ポップソングの定型に収まらない感情を、別ジャンルの映像言語で添え書きする。ジャクソンが自らの怒りを、表沙汰にできる範囲で記録に残そうとした稀有な瞬間だった。

加えて、肌の色の変化を巡る私的な背景もここに重なる。ジャクソンの尋常性白斑は1980年代後半から進行しており、自分の意思とは無関係に皮膚のメラニン色素が消えていく病だった。彼は化粧で色を均一に保っていたが、世間は「漂白」と解釈した。「黒か白か、本当はどうなんだ」という外野の詮索に、彼自身が肉体レベルで答えを出せなくなっていた。この曲は、その答え不能性を、政治的メッセージの衣をまとって普遍化した告白でもあった。

Cultural context for Japanese readers

1991年の日本は、バブル経済の崩壊が始まったばかりの時期である。日経平均株価は前年末の38,915円から大きく下げていたが、街にはまだ豊かさの残響があった。渋谷タワーレコードでは『Dangerous』の輸入盤が発売前から予約で売り切れ、店頭ディスプレイがマイケル一色に染まったことを覚えている人もいるだろう。当時の渋谷HMV、新宿ヴァージン、そしてタワレコ渋谷店は、洋楽ファンの巡礼地だった。

翌1992年12月、マイケル・ジャクソンは「Dangerous World Tour」の一環として来日し、後楽園球場の跡地に建てられた東京ドームで3公演、横浜スタジアム2公演、そして大阪・福岡を回った。後楽園球場は1988年に役目を終えていたが、その記憶はまだ生々しく、東京ドームでのスタジアム規模のロック・ショーは「日本でもアメリカ的なスペクタクルが日常になった」象徴だった。武道館規模のアリーナでは収まらない、桁違いの動員力。マイケル来日は、80年代のスーパースター時代の総決算であり、同時に「外タレ」概念の最終形でもあった。

同時代の日本のミュージシャンたちは、マイケル現象をどう受け止めていたか。桑田佳祐は1980年代後半から黒人音楽への傾倒を強め、サザンオールスターズの作品でファンクやR&Bの語法を日本語ポップに移植していた。彼が1988年に発表したソロ作『Keisuke Kuwata』には、明らかにマイケル=クインシー・ジョーンズ路線の影響が見える。一方、矢沢永吉は、ロックスターとしてのスタジアム・ショーの作法を1970年代から日本に持ち込んでいた人物であり、マイケルの圧倒的演出を「同業者」として観察できる数少ない日本人アーティストだった。彼が後年語ったのは、「ステージで一人になる怖さ」をマイケルから学んだ、ということだった。

文化的な余白を提供する場所も、この時代から育っていた。軽井沢万平ホテルは、ジョン・レノンが家族で夏を過ごしたことで知られる、戦前からの避暑地の象徴だ。マイケル自身も1987年の初来日時、宿泊先候補のひとつとして名前が挙がったとされる(最終的には別のホテルが選ばれた)。スーパースターが「日本のどこに身を隠すか」という想像力の中に、軽井沢は常にあった。喧騒から離れた針葉樹の森と、英国式の古いホテル建築。マイケルが求めていた「人間でいられる場所」の、日本における原型がそこにあった。

「Black or White」が日本でラジオから流れたとき、この国の聴き手の多くは、歌詞のメッセージそのものよりも、「世界中で同時に同じ曲を聴いている」という事実に酔いしれた。冷戦が終わり、グローバル化という言葉がポジティブに響いていた最後の数年。マイケルは、そのグローバル感覚の、最も明るく、最も無防備な象徴だった。

Why it resonates today

35年が経ち、この曲はかつてとは違う響き方をしている。「肌の色は問題ではない」というメッセージは、2010年代のBlack Lives Matter運動以降、むしろ批判の対象にもなった。「カラーブラインドネス」、つまり人種の違いを「見ない」という態度こそが、構造的差別を温存してきたのではないか、という議論である。「Black or White」のオプティミズムは、いまや時代遅れの善意のようにも見える。

だが、この曲を再評価する文脈もある。第一に、ジャンル越境の実践としての価値だ。ロック・ギターとラップとアフリカン・パーカッションを、ヒット・チャート向けに混ぜ合わせるという発想は、現在ではあまりに当然となった。だが1991年時点では、これは一種の冒険だった。リル・ナズ・Xが「Old Town Road」でカントリーとトラップを混ぜて記録を更新したのが2019年。その源流のひとつは、間違いなくここにある。

第二に、モーフィング・シーケンスは、現在のディープフェイクや生成AI時代を予告していた。顔と顔が連続的に変容する映像は、当時は「人類の多様性」を讃える比喩だった。だがいま同じ技術は、アイデンティティの操作と捏造の道具にもなっている。「Black or White」は、その両義性の最初のポップ・カルチャー的表現だった。

第三に、エピローグの破壊シーンは、近年むしろ正当な評価を受けている。表のメッセージに収まらない怒りを、別のフォーマットで記録に残す。これは、ケンドリック・ラマーやチャイルディッシュ・ガンビーノが「This Is America」で実践した手法の先駆だった。ジャクソンは1991年時点で、ポップソングが言えないことを、映像が言えることを、知っていた。

そして何より、この曲は「自分が何者かを、自分で決めさせてくれ」という、極めて私的な祈りでもある。ラベル化、カテゴリー化、所属の強制。それらに対して、人懐っこいメロディと派手なギターリフで答える。重い問いを軽く扱うことの効用と限界。その両方を、いま改めて聴き取ることができる。

深く楽しむには

🎧 音に浸る

Dangerous (Michael Jackson) 「Black or White」を含む1991年のアルバム本編。テディ・ライリーのニュー・ジャック・スウィング、ボトレルのロック寄り編曲、そしてジャクソン自身の社会的メッセージが交錯する転換点の作品。「Remember the Time」「Heal the World」「Who Is It」も必聴。 → Search

HIStory: Past, Present and Future, Book I (Michael Jackson) 1995年作。「Black or White」以降のジャクソンが、より怒りと自己弁護に傾いていく姿を記録した二枚組。新曲ディスクは、ポップスターとしての彼の精神的な激動を直接的に音にしている。 → Search

The Future (Guy) テディ・ライリー率いるニュー・ジャック・スウィングの代表作。「Black or White」のリズム設計の背景を理解するための副読盤として最適。 → Search

📚 物語を辿る

Moonwalk (Michael Jackson) 1988年に出版された本人による自伝。ジャクソン5時代から『Bad』までの軌跡を、本人の言葉で振り返る。「Black or White」を理解するための、本人の世界観の入り口。 → Search

Making Michael: Inside the Career of Michael Jackson (Mike Smallcombe) 英国人ジャーナリストによる徹底取材本。『Dangerous』制作秘話、ボトレルとの共作経緯、ミュージックビデオ制作裏側まで詳述。 → Search

Michael Jackson: The Magic, The Madness, The Whole Story (J. Randy Taraborrelli) ジャクソン家を四半世紀以上取材し続けたジャーナリストによる、最も網羅的な評伝。光と影の両面を、距離を保って描く。 → Search

🌍 ゆかりの場所

東京ドーム(東京・後楽園) 1992年「Dangerous World Tour」公演会場。後楽園球場の跡地に建つこのドームは、日本における大規模ポップ・コンサートの聖地となった。隣接する東京ドームシティの遊園地と合わせて訪れたい。 → Travel Guide

渋谷タワーレコード(東京・渋谷) 80年代末から90年代の洋楽ファンの巡礼地。CD全盛期の文化を伝える今も貴重な大型店舗。マイケル特集コーナーが復活することも多い。 → Travel Guide

軽井沢万平ホテル(長野・軽井沢) ジョン・レノンが家族で滞在した避暑地ホテル。スーパースターが「人間に戻る場所」を求めるとき、軽井沢の森と古いホテル建築がどう機能したかを体感できる。 → Travel Guide

🎸 自分でも体験する

Fender Stratocaster エレキギター 「Black or White」冒頭の象徴的なロック・ギター・リフを弾くための定番モデル。ビル・ボトレルが使ったサウンドの再現に最も近い。 → Search

MPC スタイル サンプラー / グルーヴボックス テディ・ライリー的ニュー・ジャック・スウィングのビートを自作するためのハードウェア。Akai MPC OneやNative Instruments Maschineなどが入門に最適。 → Search

マイケル・ジャクソンのダンス・レッスンDVD ジャクソン振付の代表的ムーブを学べる映像教材。ムーンウォーク、トゥ・スタンドの基本姿勢から、「Black or White」のステップまで。 → Search


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🤖 フォローアップの問い:

  1. ミュージックビデオのエピローグ(黒豹のシーン)が放送カットされた経緯を、より詳しく知りたい
  2. テディ・ライリーのニュー・ジャック・スウィングが90年代J-POP(小室哲哉、久保田利伸など)にどう影響したか
  3. 「カラーブラインドネス」批判の文脈で、現代のポップスターはどう人種を歌っているか(ビヨンセ、ケンドリック・ラマー等)
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